安楽寺の名前・歴史・宗教について
名前
山号(山の名前)は見徳山(けんとくざん) 院号(建物の名前)は智眼院(ちげんいん) 寺号(お寺の名前)は安楽寺(あんらくじ) 待兼山から東に続く丘陵の見徳山に建てられ、その山の名を以て山号としています。かつての果樹、雑木林、竹藪、田畑の自然環境から替わって、中国道、大阪モノレールの開通に伴い周囲は住宅地となり、その中の高台に立地しています。建物の名前は、如来の智慧の眼(まなこ)を意味し、寺号は安楽浄土を願っての名前です。
歴史
草創は不詳ですが、織田信長摂津攻めの戦乱で焼失後、正保元年、圓譽離念無為和尚により中興開山されたお寺です。 「蓮門精舎旧誌」の元禄9年(1696)の記録によると、正保元年(1644)武蔵の国岩槻村(埼玉県)の出身の圓譽離念無為和尚が安楽寺を再興されたとあります。離念和尚は江戸時代の関東18檀林の一つ川越の蓮馨寺で学問修行を修めた後、京都の法然上人の御廟(知恩院)を拝し、近隣各地を遊行されていた。 そして、摂津の国柴原の地に至り、安楽寺が織田信長と伊丹の荒木村重の乱によって兵火に遭い焼失していたのを嘆き、再興されたのです。60歳の時で、11年間住職をし、明暦元年71歳で遷化されました。
宗派
浄土宗。総本山は知恩院。 安楽寺は、浄土宗に属し、総本山は知恩院。お念仏の宗。 「南無阿弥陀仏」と唱えることにより、心が平安になり、後生の安楽を願う宗旨です。
安楽寺の建物・仏像・史跡について
本尊
本尊は阿弥陀如来、侍観音勢至両菩薩明治時代の目録には、聖徳太子作とあるが、像立の経緯については不詳。須弥壇は江戸時代の銘があります。昭和~平成に修復して、今日まで檀信徒の信仰を集めています。
本堂
現本堂は平成元年に落慶したお堂です。 昭和62年~平成元年に再建しましたが、江戸時代の本堂を解体したとき、元禄12年(1699)本堂、宝永6年(1709)大屋根、寛政2年(1790)庫裡、文化15年(1818)本堂の棟札が発見されました。幾多の修復。再建を経て、昭和平成大再建を果たし今日に至ります。 なお、現庫裡は平成7年の阪神淡路大震災で被災し、再建した建物です。
史跡
豊中市指定天然記念物「大ソテツ」
境内には、樹齢400年を超える大ソテツが豊中市唯一の天然記念物となっています。安楽寺に植えられた由緒は不明ですが、諸行無常の世の中において、いつも青々とみどりの葉を茂らせているソテツが珍重されたものと思われます。雌株で、豊中のような北の土地で亜熱帯のソテツが営々と育っていることが珍しいと、昭和40年代に天然記念物に指定されました。近年は温暖化現象のせいか、毎年花を咲かせ、成長が著しく、温暖化を喜んでいるような成長ぶりです。 豊中市のHP「豊中百景」でも紹介されています。
園井東庵墓碑
豊中の「赤ひげ先生」仁医として民話にもなった園井東庵の墓境内墓地に園井東庵の墓があります。東庵は現在の八女市の出身
墓碑には「久留米の産」とあり、九州より青木氏が麻田藩の大名に転封になった折、御典医として呼び寄せられた名医。岡村(豊中市岡町)、刀根山に居住し、貧しい民には無料で診療したことで、人々からは義斎明神と祀られ、義民伝に名を残す名医です。豊中市の民話として数多くの逸話が残されています。豊中市のHP「豊中の民話」に詳しく載っています。
江戸期の石段
平成23年に改修した石段は、約200年前のもの自然積みされていた正面石段が崩れてきていたので、平成23年に修復しました。天保5年(1834)3月に染香(しむか)村(今の豊中市長興寺)の黒木宇兵衛が寄進したもの。高砂市で切り出された宝殿石で築かれたもので、その趣のままに修復しました。石段を登って山門をくぐるとホッとした空間が広がり、見晴らしがよく、天気が良ければ、生駒山、大阪市内のツインビル、空中庭園が眺望できます。山門は24時間開けて皆様をお待ちしております。
地蔵尊
境内の石像地蔵尊お寺の前には見徳山公園があり、公園で遊ぶ子供たちがよくお参りする地蔵尊です。
寺宝
江戸末期に本尊阿弥陀像より分身の舎利が出現し、大阪近辺よりそれを礼拝する参拝者が行列をなしたという仏舎利があります。同じく江戸期に土中より現れたという蓮糸織地の阿弥陀三尊絵図のほか、享保年間に京都知恩寺から賜った利剣名号、千手観音像、弘法大師像、涅槃図など数多くの寺宝があり、六斎念仏講の太鼓鉦、柴原村共有の枕屏風二十五菩薩来迎図屏風を保管しています。